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リファクタリング・ウェットウェア アンディ・ハント著 武舎広幸+武舎るみ訳

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訳者あとがき

8年ほど前(2001年頃)のことになります。義母が脳腫瘍のために手術を受けました。腫瘍の手術自体はうまくいったらしいのですが、老齢の義母には麻酔などの負担が大きすぎたのか、それともアタマをいじったせいなのか、一人では何もできなくなってしまいました。

手術した病院から退院を迫られて転院先を探したものの、望むような病院が見つからず、義母を自宅に引き取ることにした我々家族は、何時間かおきに義母のオムツを替え、「いただきます」も言わずにエプロンに食べ物をボロボロこぼしながら食事をする母と生活を共にすることになりました。

ある日、介護を家内(武舎るみ)と息子に託し、信州の実家に帰っていた私は、いつもとは違う局の朝のニュースをなんとはなしに見ていました。介護保険制度が始まったばかりで、我々家族のみならず、世の多くの人の関心事で、この日も介護の話題が取り上げられていました。

そのニュースによれば、面白いことに、計算問題や漢字書き取りの練習をすると、失禁や身の回りの整理整頓など、多くの被介護者が持つ問題が改善するというではありませんか。ある介護施設で実験したところ、病状や問題に顕著な改善が見られたのだそうです。

話はその時からさらに2年ほどさかのぼります。私は『プログラミングは難しくない!』というプログラミングの入門書を書いたのですが、そのときの例題として、小学校1年生用の計算問題を生成するプログラムを作りました。20問程度の足し算や引き算を自動的に生成して、ユーザーが解答を記入すると採点をしてくれるというものです。ボタンを押すたびに、乱数を使って違う問題が生成されます。誰でもピンと来るものになりそうだと考えて、その本の例題に採用したのです。

ものは試し。すでに計算問題を自動的に作ってくれるプログラム(ウェブページ)があるので、ただ印刷するだけ。まずは、5、6枚、義母にやってみてもらいました。驚くなかれ、始めてから数日で、義母はオムツが不要になってしまったのです。プログラマーの卵向けに作ったはずの計算問題が思わぬところで役に立ちました。

義母もリハビリを始めて、少しずついろいろな機能が回復してきていたことは間違いありません。しかし偶然というにはあまりにも偶然。回復の度合いも早すぎます。その後も義母は、娘が届ける計算練習をほぼ毎日続けています。当時は自分よりもずっと元気だった義父の冥土への旅立ちを見送り、80歳を過ぎても元気で暮らしています。義父がいなくなってしまって一人暮らしは不安だからと、我々の家から歩いて数分の、自分で選んだ老人施設に住まいを移しはしましたが。

* * *

脳というのは自分の体の一部であるにもかかわらず、まったく不思議な存在です。著者のアンドリュー(アンディ)・ハント氏は『達人プログラマー』をはじめとする数多くの著書で、ソフトウェア開発者の間では大変有名な方ですが、この本ではプログラミングそのものから少し離れて、脳をどう使えばよいのか、どう鍛えればよいのか、氏の思うところを紹介してくれています。

紹介の基準は、あくまでもプラグマティックであるかどうか、実際に役に立つかどうかです。科学的に証明されていないものや、従来の考え方からみるとかなりアヤシイものも含まれています。

しかし、義母の場合の計算問題のように、実生活で役に立つことは試す価値があると思いませんか。科学的な証明ができないからといって、躊躇する必然性はありません。現に、いま書店の棚を見ると、高齢者向けの計算練習や漢字書き取り、音読用の文学作品などを題材にした本がたくさん並んでいます。その後の研究で、こういった作業が脳によい、特に認知症予防になるという認識が確立しつつあるようです。

この「あとがき」まで到達した皆さんは、既にハント氏の提案のいくつかを試された方も多いと思いますが(我々翻訳者は、訳書の「訳者あとがき」を最初に読むという習性を持っていますが、そういう方は少数でしょう)、興味を持ったものだけでなく、アヤしそうなものや、興味を引かなかったものも是非試してみてください。皆さんにとっての「計算問題」が見つかるかもしれません。

もちろん、ハント氏も書いているように、どんなアドバイスであろうと盲従すべきではありません。「内なる自分から聞こえてくる、ちっぽけで弱々しい存在の声に耳を傾け」ご自分の「直感」で判断をなさってください。きっと皆さんのウェットウェアのリファクタリングのお役に立てることと思います。

最後になりますが、翻訳版の原稿を査読していただきました永和システムマネジメントの懸田剛氏、角谷信太郎氏、OGIS International, Inc.の山野裕司氏、また、この本の翻訳の機会を与えてくださったオライリー・ジャパンの宮川直樹氏、そして我々からの質問にていねいに答えてくださった著者のアンドリュー・ハント氏にも深く感謝いたします。

2009年3月
訳者代表 武舎広幸