機械翻訳 しっかり入門
第2章 翻訳ソフトをワープロのように使う
第1章で翻訳ソフトが(優秀な)翻訳者のライバルになるには,あと何十年かはかかるであろうことを説明しました。それにもかかわらず,なぜ私が翻訳ソフトを使って(そして,作って)いるのか。今回はその理由をご説明しましょう。
前の章では,ワープロと比較して翻訳ソフトについて考えてみましたが,今回もこの2つを別の観点から比較してみましょう。前回と同様,ワープロ専用機,あるいは仮名漢字変換ソフトを含むパソコンのワープロソフトを合わせて「ワープロ」と呼ぶことにします。
実務翻訳ではもちろんですが,文芸翻訳においても,既に実力が認められている大家(たいか)でもない限り,ワープロが使えないと仕事がもらえない時代になりました。発注者側からすると,手書きの原稿を改めて入力し直すのは手間ですし,誤植の原因にもなります。データになっていれば,様々な用途に使い回しもできるわけで,今更手書きの原稿を受け取る気にはなれないでしょう。もっとも,翻訳者にとっても,手書きに比べて修正が簡単である,データとしてメールで送信すればよいので納期ギリギリまで作業ができる,自分の悪筆を隠すことができる,といったメリットがありますから,値段が格段に高かった昔ならいざ知らず,今となってはワープロを使わない翻訳者は「絶滅危惧種」になってしまいました。
一方,翻訳ソフトはというと,これを使えないから仕事がもらえないということは,まずありません。発注者にしてみれば,「翻訳ソフトを使って翻訳しました」という原稿をもらったとき「きちんとチェックしないと危ないかもしれない」と思いこそすれ,翻訳者の評価が上がることはまずないでしょう。したがって,発注者側からの要求がきっかけで翻訳ソフトを使う必要が生じるというケースは,普通ないでしょう。もっぱら,翻訳者にとって作業が楽になるかどうかが翻訳ソフト導入の決め手となるわけです。
さて,上には書きませんでしたが,「辞書を引く回数を減らすことができる」というのも,翻訳者がワープロを使うひとつの大きなメリットですよね? ワープロやパソコンなしできちんとした原稿を書こうとすると,「こんな感じの字だったんだけど」と,うろ覚えの漢字を調べるために国語辞典を開いたり,「どうもピッタリはまらないので他の表現はないか」といった場合に類語辞典を引くといった作業が生じます。辞書のページを繰っているときに,よい表現が思い浮かぶ場合もありますので,まったく無駄な時間とは言いきれませんが,特に実務翻訳者にとっては辞書を引く時間はできるだけ節約したいところでしょう。最近のワープロには類語辞典機能もついていますから,国語辞典や類語辞典を引く時間はかなり節約できているはずです。
しかし,翻訳ソフトほどではないですが,ワープロにも不満がないわけではありません。一番大きなものは,誤変換の問題でしょう。最近では,以前に選択したものを「学習」してくれたり,また周囲の語との「共起関係」からより確からしいものを選択したりといった手法を用いて,だいぶ賢くなってはきましたが,一発で望む漢字が出てこないことがまだまだあると思います。当たり前のことですが,完璧な道具というのはほとんどなくて,ワープロも他の道具も,不満はあるものの,便利だからそれを使っているわけです。
翻訳ソフトを「翻訳するソフト」だと思うから「なんでこんな簡単な文が翻訳できないんだ」と頭にくることが多いのです。しかし,発想を変えて,まずは「辞書引き時間削減ソフト」だと考えてみてください。翻訳者の辞書引きの回数は,恐らく,作家などオリジナルの文章を書く人の辞書引き回数の数倍,あるいは数十倍に達するのではないでしょうか。なじみの深い単語であっても,周囲の単語と組み合わさって様々な意味を持ってきますし,よく知らない分野の専門用語ともなれば必ず辞書で訳を確認する必要があります。この作業こそ,機械にやらせるのにもっとも適した作業なのです。人間は一度辞書を引いても忘れてしまうことがありますが,コンピュータならば,非常に長い単語を登録しても,たとえば,ひとつの「文全体」や「段落全体」を「単語」として登録しても,登録した「単語」が何年か後に再度出てきても,必ず訳を覚えていて出力してくれます。
翻訳は,砂の中に散らばってしまった何万もの小さな宝石を,一人だけでひとつひとつ拾い集めるような,地道で,孤独で,ストレスのたまる作業です。集めた宝石で王冠をきれいに飾れれば喜びも大きいのですが,途中でくじけそうになることも多いでしょう。でも,何万もの粒をひとつずつ拾うのも,ちょっと素敵な異性や,気が置けない友人が隣にいて,楽しい会話をしながら助け合ってやっていければ,だいぶ苦痛が減りますよね。翻訳ソフトとそんな関係が築ければ,翻訳の苦しさもかなり和らぐのです。
「翻訳ソフト」というよりは,「翻訳お助けソフト」といった名前で呼ぶ方がふさわしいのでしょう。一般の人々にわかりやすいですし,印象も強いということで,「翻訳ソフト」という名前が広く使われるようになってしまいましたが,実務翻訳を志す方は,「翻訳」と「ソフト」の間には,「お助け」の文字が隠されていることを努々(ゆめゆめ)お忘れなく。「お助け」機能を上手く使えば,文字の入力や辞書引きといった単純な作業にかかる時間を少なくして,わかりやすく美しい文章を綴ることに割く時間を十分にとることができるのです。
「翻訳(お助け)ソフト」を「作って」いる私の場合は,容姿端麗なれどちょっぴり間抜けなメイドさんをしつけるご主人様の気分ですかね。セクハラの臭いがする? それでは,賢そうな子犬をもらってきて,一流の猟犬に育て上げる調教師の気分とでも言いましょうか。育てる喜びを知ってしまうと,はまりますね。
さて,ここまで翻訳ソフトはじつは「翻訳お助け」ソフトであって,「出てきた文字列を『翻訳』だと思ってはいけない」ということを強調しました。ではそれを「何」だと思えばよいのか,具体例を見ながら考えてみましょう。
次の例文は http://www.dynamicobjects.com/d2r/archives/002399.html から作者の許可を得て引用しました。最近はやりの weblog (ウェブログ, blog とも呼ばれる)に関して説明したものです。 Weblog が何か知らない人は,このページを見てくださいね。
《原文》
Here's my own attempt at a short list of common characteristics of weblogs.Weblogs:
- generally present content (posts) in reverse chronological order.
- are usually informal, and generally personal
- are updated regularly
- don't involve professional editors in the process (that is, someone who is getting paid explicitly to review the content)
さて,これを体験版が無料公開されている PocketTranser/ejeco という翻訳(お助け)ソフト(付録1参照)で「翻訳」してみると次のような「訳文」が出てきます(これを訳例Aとしましょう)。
《訳例A》
weblogs のありふれた特徴の短いリストの自分自身の試みは,ここにある
Weblogs :
- 通常,逆の年代順の注文で内容(ポスト)を提示する。
- 通常非公式のそして一般に個人である
- 規則正しく更新される
- プロの編集者をこの過程(すなわち,着いている誰かは,明確にレビューにこの内容を払った)に,巻き込まない
中学生の英文和訳問題の解答としてならば,たとえば,「規則正しく更新される」とか「プロの編集者をこの過程に,巻き込まない」などは ○ をもらえるかもしれませんが,「翻訳」としてはどれも × でしょうね。じつは,このままの「訳文」でも使えないことはないのですが,翻訳ソフトのもつ機能を使ってもう一段加工しておきます。主な操作としては,次のようなものがあります。
- 「辞書登録」機能を使って,訳語を登録する
- 「訳語選択」の機能を使って,この場面によりふさわしい訳語を選択する
- 「フレーズ指定」の機能を使って翻訳ソフトに句や節の区切りを教えてあげる
たとえば,weblogはそのまま英語で出てきてしまっているので,これを「ウェブログ」と訳出するように辞書に登録してあげます。一度登録すれば,いつも何度でも千度でも「ウェブログ」と出力してくれます。物忘れという単語は,ナポレオンの辞書にはあるでしょうが,翻訳ソフトの辞書にはありませんから安心です(嘘です。並みの翻訳ソフトならば登録されているはずです)。それから,「weburogu <スペースキー>」あるいは「uxeburogu <スペースキー>」などと「ローマ字カタカナ」変換をして入力する必要がなくなるので,腱鞘炎の予防効果もありますね(翻訳をはじめたばかりのあなた,健康には十分気を付けてくださいね。気功はおすすめですよ(笑))。「in reverse chronological order」については, order の訳を「注文」から「順番」に変えて「逆の年代順の順番」としても,相変わらず意味不明なので,全部まとめて副詞として「新しいものから順に」と登録してしまいましょう。「できるだけ長い単位で登録する」というのもコツ(tips)のひとつですね。また,「informal」の訳語の「非公式の」をダブルクリックすると,「非公式の」「形式ばらない」「略式の」「インフォーマルな」などといった選択肢が表示されるので,この中から「インフォーマルな」を選べば訳語は「インフォーマルな」に変わります。 regularly も「規則正しく」よりは「定期的に」の方がピタッとはまるので,そちらを選びましょう。さらに続けて,「don't involve professional editors in the process (that is, someone who is getting paid explicitly to review the content)」の文では,いくつかの単語を辞書に登録するだけでなく,括弧内と外は別々の固まりとして「フレーズ指定」をしてやるとこの2つがはっきりと分かれ,少しまともになってくれます。
こういった操作をすると,次のような訳になります(訳例Bとします)。
《訳例B》
ウェブログの一般的な特徴の短いリストの自分自身の試みは,ここにある。ウェブログ:
- 通常,新しいものから順に(ポスト)表示される
- 通常インフォーマルなそして普通は個人的である
- 定期的に更新される
- プロの編集者は関与しない(すなわち,内容のチェックを報酬を得て行っている人はいない)
どうです? まあまあ意味がわかる文が増えましたよね? ひとつ注意してほしいのは,上で説明したような作業は「けっこう楽しい」作業だということです。この例文はみな短いので,翻訳ソフトを使わずに普通に翻訳してもまだよいのですが,長い文になると構文を理解しつつ,少しずつ翻訳していくのはとても骨が折れます。「ご不要になりました,古新聞,古雑誌,パソコン,CDプレイヤー,89年以降発売のテレビ……」などと聞こえてきたら発狂しそうなほど集中が必要な作業です。それに対して,翻訳ソフトを使えば,「『weblog』は『ウェブログ』と。『in reverse chronological order』は全部まとめて,『新しい記事から順に』としてしまえばよかろう。おっとっと。『新しいものから順に』にしておけば,いつでも大丈夫だからこっちにしよう。『記事』とは限らないからな。『非公式の』はちょっと硬いから『インフォーマルな』を選んでおこう。あまりカタカナ語は使いたくないんだけどね。まあ,この方が感じが出るし。括弧の中と外ははっきり分けた方がわかりやすいな。こんなことぐらい自分でやってくれよ? まだまだ,お馬鹿だな?」と独り言をいいつつ,松たか子や Aiko の歌でも聴きながらホイホイホイとできてしまう作業なのです。
さて,このままでは,まだまだ商品にはほど遠いレベルなので,ここからは音楽をストップして,(ゴン中山の口調で)「集中!」です。最初の文の「一般的な特徴の短いリストの自分自身の試み」というのは,日本語にはまったくなじまない表現なので,ばっさり切って,「自分で書くならこんなところかな」という表現を頭の中から引っ張り出してきます。「ウェブログ:」は,省略しても日本語ではまったくおかしくありませんので,削除してしまいます。むしろ,こんな風に「<名詞>:」を残しておけば,「こいつは素人だな」ということを宣伝しているようなものです。
以下,同様の作業を進めて,次のような訳を完成しました(訳例C。「誤訳はないだろうな。ドキドキ,ドキドキ」)。
《訳例C》
ウェブログの一般的な特徴を,私なりにいくつかあげてみましょう。
- 新しい記事から順に表示(ポスト)されるのが普通
- 通常,インフォーマルで,個人的な事柄が書かれる
- 定期的に更新される
- プロの編集者(つまり,報酬を得て内容のチェックを行う人)は関与していない
このくらいまでできていれば,納品してもクライアントから文句は来ないでしょう。訳例Bを訳例Cにまで持っていくにはそれなりの時間がかかります。しかし,既に一応日本語と呼べるレベルの文字列にはなっているので,原文をゼロから訳すより「心理的な抵抗感」と手首への負担がだいぶ小さくなります。「そんなことはない。『ウェブログの一般的な特徴の短いリストの自分自身の試みは,ここにある。』を日本語だという奴がやるセミナーなんか役に立つわけがない」と思う人。ものは試しです。1週間でいいですから,翻訳お助けソフトを使ってみてください。慣れます。保証します。小説などは別として,技術系の文書を訳したものならば,意味不明だと思っていたヘンテコな「訳文」から,結構意味がくみ取れるようになります。気をつけなければいけないのは,自分が慣れても読者は慣れていないということ。「機械翻訳モード」と「人間翻訳モード」はしっかりと切り替えなければなりません。「美しい日本語」を心がけましょう。最後に,上で見た翻訳の過程を,普通の翻訳,つまり翻訳ソフトを使わない翻訳の過程と比較してみましょう。私が行う場合,次のような過程を経て訳文が完成します。
原文 → 素のままの出力 → 辞書登録などを行った結果 → 最終出力
(訳例A) (訳例B) (訳例C)
これに対して,普通の翻訳者の場合は次のような過程になります。
原文 →→→→→→→→→→→→→→→→→→→ 最終出力(訳例C)
(辛くてストレスのたまる道)
あなたの前には,2本の道があります。左の道を進めば途中の関所は3つ,右の道を進めば関所はひとつです。関所には悪代官が控えています。右の道を選んだ人は,森林に覆われて暗く険しい山道を独力で歩いていかなければなりません。関所はひとつしかないものの,悪知恵を働かせる商人とグルになった悪代官が落とし穴を掘って待っています。左の道は海岸沿いの景色のよいハイキングコースで,自分のお供を何人か連れて行くことができます。また,好きな音楽でも落語でも流しながら行ってかまいません。お供は記憶力抜群で仕事はとても速いときています。ただし,中にはちょっと気むずかしい奴がいて,ある程度ツボを心得た人でないと扱いがむずかしいのが難点といえば難点です。翻訳ソフトを使う道(左の道)には3つの関所が控えていますが,最初の関所はマウスを数回クリックして指示を出しさえすれば,「風車の弥七」か「かげろうお銀」がささっとやってくれます。2つ目の関所になるとちょっと頭を使いますが,「うっかり八兵衛」には団子を与えつつ,「柘植の飛猿」に大業を依頼すると行った具合に,指示の出し方に気を付けさえすれば大丈夫でしょう。ここまでの道のりで,十分な英気を養っておけば,第3の関所の悪代官には余力を持って立ち向かうことができます。「控えおろう。この紋所が目に入らぬか」というわけには行きませんので,自分の腕(頭)も鍛えておかなくてはなりませんがね。さあ,あなたが選ぶのは,右の道,左の道?
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