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マーリンアームズ株式会社

機械翻訳 しっかり入門

第1章 翻訳ソフトは翻訳者のライバル?

私は20年ほど前から「機械翻訳」をするソフトウェア(「翻訳ソフト」と呼ばれることが多いですね)の開発をしています。また,その後「人間翻訳」もやるようになりました。今では,ソフトウェアの開発と実務翻訳の二足のわらじです。「自分が使わなければ,誰が使ってくれるんだ」ということもあって,15年ほど前から翻訳のほとんどを,自分達が開発した翻訳ソフトを使って行っています。私のような翻訳ソフトの「ヘビーユーザー」は,実務翻訳者に限ったとしても少数派だと思いますし,翻訳ソフトの開発経験のある人はもっと少ないと思いますので,私の講義の第1回は翻訳ソフトの周辺の話題からはじめましょう。翻訳ソフトに対する私の考え方や活用術をご紹介して,実務翻訳者をめざしている皆さんが,自分にとっても「使える」ものなのかご判断いただく材料になればと思います。

今回はまず,「Word」をはじめとするパソコン用のワープロソフト,あるいはワープロ専用機(ここでは両者を合わせて「ワープロ」と呼びます)と,翻訳ソフトを比較してみましょう。どちらも言葉を扱うことは共通で,ソフト開発者の側から見ると内部的にはかなり似た処理をしています。しかし,ほとんどの翻訳者にとって一方は必需品ですが,もう一方は無用の長物です。ワープロと翻訳ソフトを比べることによって,「翻訳ソフト」を無用の長物にしている原因のひとつが見えてくるのです。

10年以上前,翻訳ソフトがまだ100万円を超える値段で売られていた頃,駆け出しの翻訳者の人から「私たちの仕事は近い将来なくなってしまうのでしょうか?」といった質問を受けることがありました。DHCのメルマガ担当者の方に伺ったところでは,今でも似たような質問がたまに来るそうです。さて,一方,ワープロに関して作家やライターの卵が「将来,私たちの代わりにワープロが文章を書くようになるんでしょうか?」とか質問をしたという話は聞いたことがありません。

誰もワープロが作家に取って代わるとは思っていませんよね。ワープロがオリジナルの文章を書けるわけがないことを皆知っています。これは,裏を返せば,世間には翻訳という作業を「オリジナルの文章を作るものだ」とは考えていない人がいる(多い?)ことの証拠と見ることができます。極端に言えば,単に,辞書を引いて単語を置き換えれば済むもの,それが翻訳だと思われているわけです。それでもまだ,文芸翻訳はそのような誤解が少ないかもしれませんが,実務翻訳となると,置き換え作業と思われがちな傾向にあると思います。

文章を文字としてコンピュータに記憶することはできます。それぞれの文字を数字(「文字コード」)に対応させて記憶すればよいのです。しかし,その文章がどのような印象を読者に与えるか,それがもつ意味は何か,といったことは,今は,コンピュータには判断できません。翻訳の経験のある方ならばよくご存じのように,辞書を引いて単語を置き換えるというのは,入り口にすぎません。そこから先,原文の持つ意味を考え,それと同じ内容を的確かつ自然な表現で書き表すことの方が大変な作業です。この作業は,オリジナルの文章を書けないのと同じ理由で,現在のコンピュータにはできません。実務翻訳と文芸翻訳では目指す方向が少し違うかもしれませんが,どちらにも「よい文章」「美しい文章」を書く力が必要なのです。

コンピュータが扱えるのは数字に置き換えられるものだけ。画像を膨大な数の点の集合として表現し,各点の色を数値と対応させて記憶することで写真をコンピュータで扱うことができるようになり,デジタルカメラが登場しました。しかし,どのような写真が美しいのかを数値で表すことは(少なくとも今は)できません。美しさをどう数値で表せばよいのか(まだまだ,ごくごくわずかしか)わかっていないのです。人がなぜ,何を「美しい」と思うのか,わかっていないのです。

優秀な翻訳者並みの翻訳ソフトができあがるのは,文章の持つ意味を数値で表現する方法がわかったとき,小説や写真の価値や意味を数値で表現する方法がわかった後なのです。それは,恐らく,オリジナルの小説を書くワープロの登場よりも後になるでしょう。逆の方向から見ると,単に辞書を引いて(あるいはきちんと辞書も引かずに)単語を置き換えているだけの翻訳者は,近い将来翻訳ソフトに取って代わられる可能性が高いということです。

さて,では,なぜ私はうまく訳せもしない翻訳ソフトをわざわざ使っているのでしょうか? 実は,活用次第では,きちんとした仕事をしたい実務翻訳者にとってかなり便利なツールになるのです。そのコツは「翻訳をするソフトだと思わずに,ワープロのように使うこと」です。これが具体的に何を意味するのか。それは,次章でご説明しましょう。

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