マーリンアームズ株式会社

DHC翻訳若葉荘「本日の講義」

第4回 人間に教えること、コンピュータに教えること

前回の「翻訳ソフトの話を続けるべきか否か」アンケートにお答えいただいた皆さん、ありがとうございました。アンケートの結果、8割近くの方が「続けてくれ!」と希望されているようなので、このまましばらく翻訳ソフトの話を続けさせていただきます………と思っていたのですが、ある晩寝ていてふと気がついたのです。「最後にあるアンケートまで読んでくださった方は、翻訳ソフトに興味のある方に決まっているではないか」と。せっかく自分でプログラムを作って準備したのに、考えが足りませんでした。

というわけで、これからさらに翻訳ソフトの話を続けるとなると、かなり細かい話に入っていくことにもなりそうですので、そちらについては私のホームページで折に触れて続編を書かせていただくことにして、私が現在開発中の翻訳ソフトについてお話をさせていただいて、翻訳ソフトの話は「中締め」とさせていただくことにします。

一昨年から2年間、私は独立行政法人 情報処理推進機構(IPA、旧名称 情報処理振興事業協会)という経済産業省の外郭団体の補助金制度である「未踏ソフトウェア開発事業」に応募して採用され、「次世代の翻訳ソフト」の開発を行ってきました。現在は、私自身が代表を務める会社がこれを引き継いで、開発を続けています。この「未踏事業」は、従来のお役所の補助金のイメージからは大部離れていて、普通なら「XX審査委員会」とかいう学者先生方が合議制で選ぶところを、IPAが選んだ10人ほどの「プロジェクトマネージャ(PM)」が、気に入った提案を個人の判断で独断(と偏見)で選ぶことができるんです。少し前に話題になった、インターネット経由のコピーソフトのWinnyの作者も、この「未踏事業」の開発者だったのです。Winnyは未踏事業の開発が終わった後で開発したソフトだそうですが。

私の場合、最初の年に「自分と同じレベルの訳文を生成する翻訳システムの探求」というタイトルで応募しました。この「自分」は翻訳者としての自分で、つまり、翻訳者と同じような訳文を出せるようなシステムにするにはどうすればよいかを探求しようと考えたわけです。そうしたら、私が応募したPM(ベンチャー向け投資会社の取締役)が私の訳書を何冊かお読みになってらしたんです(これでも、インターネットが「ブレーク」した1995年〜96年頃、私の訳書はコンピュータ関連書籍のベストテンの常連だったのです。今は当時のインターネットのような「超注目株」がないので、こんなことは難しいですけれど)。名前が珍しいので、記憶に残っていたという面もあるようですので、ご先祖様に感謝しないといけないですが。「強い将棋のプログラムを作るには、将棋が強いプログラマがいる」のだから「よい翻訳者がやれば、よい翻訳ソフトができるかも」というわけでPMは私を採用してくださったわけです。

じつは、この補助金に応募する前年にDHCの『英日翻訳講座 英日コンピュータコース ADVANCED <情報通信> 』のテキストを執筆していたんですが、開発にこの経験がかなり役に立ったのです。受講生の方が訳した英文を添削するための手引きも書いたのですが、普通、翻訳者は「感覚的にこちらの表現の方がよいから」と無意識に表現を決めています。でも、翻訳者の卵の方々に「感覚的によい」では通じませんよね。具体的な基準がいるわけです。たとえば、"XXX enables direct control over the volume"を「XXXは音量に対する直接的な制御を可能にする」と、非常にまどろっこしい日本語に訳した人がいるとすると「音量を直接制御できる」とか「調節できる」などと添削したくなるわけですが「感覚的に『直接的な制御を可能にする』は変だから直してください」と言っても、わからない人にはわからないわけです。「日本語では、動作を表す名詞を使って間接的に表現するよりも動詞を直接使う表現の方が好まれる。たとえば『制御が可能になる』よりも『制御できる』とする方が好まれる」という「ルール」にしておくわけです。こうすると、「制御を可能にする」というのがおかしいと思う感覚が(まだ)ない人でも、ルールを当てはめさえすればよいことになるわけです。多分、美しい文章に触れる機会が多い人は、自然に自分の頭の中にこういうルールを無意識のうちに作っているのだと思います。そうでない人でも、しばらくルールを適用していると、だんだんそういう感覚が芽生えてくるのでしょうね(いくらやっても、芽生えてこない人もいるようなので、そういう場合は困っちゃうのですが)。

コンピュータに翻訳させる場合も似たような作業をするわけです。コンピュータは、ある意味どんなお馬鹿さんよりもお馬鹿さんです。言われたことしかやらない。少なくとも今のコンピュータは。感覚的に判断しろといわれても判断できない。明示的なルールになって、手順が明確になっていないと何もできないわけです。逆に言われたことはものすごく速くやれる。それから、一度言われたことは絶対に忘れないというすばらしい記憶力も持っているわけです。ですから、私がやっていることは、我々翻訳者が無意識でやっていることを「意識化」して、コンピュータが実行できるようなルールにしてやることなんです。

それで、今度は通学講座の話に飛ぶのですが、今年の3月にDHCで2時間の通学セミナーをやらせていただいて改めて思ったのですが、人間に「説明する」ときだけでなく、「教える」ときもこのルールは役に立つのですね。翻訳の初心者がほとんどでしたから、皆さん「なんとなくこちらの方がいいと思います」とおっしゃるのですが、私は「こうこうこういう理由があるので、こちらの表現の方がいいですね」と理由付けができるのです。そうすると、受講生の皆さんも理由がわかるので、はっきり理解できる。感覚的に記憶するだけでなく、理性的にも記憶できる。自分の頭の中でルール化できるわけです。5月の連休明けから全10回のホームページやプログラミングを題材にした翻訳者のための通学コースも始まったのですが、ここでも基本的な進め方は同じです。皆さんによい訳文を作成するための「ルール」を説明しているのですが、逆に皆さんの訳を拝見して、その中から新しい「ルール」を発見することもあるのです。昔からよく言われていますけど、私の場合、特に教えることによって学べること(とくに翻訳ソフトの開発に役に立つこと)がすごく多いわけです。

じつは、同じようなことを考えた方がいらしたことが最近わかりました。『英文翻訳術』(安西 徹雄著、ちくま学芸文庫)という本があるのですが、この中に書いてある「訳し方のルール」というのが私が考えていたルールと似ているのです。安西先生は翻訳教育用にルールをお考えになった。私は、翻訳ソフト用に、つまりコンピュータ用にルール化したわけです。私の方は、相手がコンピュータなので、より厳密なルールにしなければなりません。このため、安西先生のルールの中には、コンピュータ向けのルールにできないもの(どうやればよいか見当がつかないもの)とか、現在のコンピュータでは時間がかかりすぎてとても実用的にならないのでルールとして加えられない、というようなものもあるわけです。しかし、とても参考になります。現在翻訳を学んでいらっしゃる方にも一読をおすすめします(同じ著書で類似の本が何冊か出ているので、そのうちのどれでもよいでしょう)。ここにあるルールだけを覚えても、よい翻訳者にはなれませんが、よい訳文を出す「とっかかり」にはなるでしょう。

従来の翻訳ソフトは、少なくとも私が知っている翻訳ソフトは、すべてエンジニア的発想でできています。「訳し方のルール」のような翻訳者が訳文を作るのに使っているノウハウを取り入れようとしたシステムはなかったのです。それをやろうとしているのが私が今開発しているシステムなのです。今までの翻訳ソフトとは、ちょっと違うものを作りたいと思っているのです。


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