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スケーラブルWebサイト    Cal Henderson著    武舎広幸+福地太郎+武舎るみ訳

訳者まえがき

翻訳をしているときは、原著の世界にどっぷりと浸ることになります。その本の世界を表現するためには、まずは自分の頭の中にその世界を再構築して、そこに入り込まなければならないのです。この傾向はとくに小説やノンフィクションなど、どちらかというと文系の本に顕著で、たとえば新製品の開発物語だったりすると「がんばれ、がんばれ、あと一歩で完成だ!」などと、登場人物を応援しながら訳すことになります。素晴らしい小説やノンフィクションは、たちまちのうちに読者を本の中の世界へとワープさせてくれますが、普通の本ならば長くても数日もあれば読めてしまいますから、本の世界に浸る時間を比べれば、翻訳者の方が何十倍、何百倍も長いのです。

この本は技術書の中では私が今までに経験したことがないほど「のめり込み度」が激しい本でした。原著者が今までに経験したこと、ごく小規模なところからはじめて、世界一の写真共有サイトを構築・運営するまでに成長した、その経験の過程で獲得した大量の知識を惜しげもなく披露してくれています。弓矢の名手から放たれた矢が的の中央を次から次へと射抜いていくように。敵をコーナーに追いつめたボクサーが「これでもか、これでもか」とパンチを繰り出すように。この本を手に取られた方ならば、よくご存じかもしれませんが、ウェブアプリケーションの開発、展開には、さまざまな知識が必要とされます。その上、競争に勝つためには誰にも負けないアイディアと資金力、そして運も必要でしょう。こういった事柄について、原著者がこれまでに獲得したノウハウや発想、思想が言葉の端端からあふれ出てくるのです。

出版社の方からPDFファイルを送っていただいて、初めて原稿を読んだときの第一印象は「なんと明快な、そして端正な文章を書く人なのだろう」というものでした。その明快な文章から『HTML入門』『Java言語入門』など日本でもベストセラーになった本の著者のLaura Lemayさんの文章を思い出しました。小規模のサイトから、超巨大なウェブサイトまで、その構築や運営に必要な知識やノウハウが、まずは概念的に、続いて具体的に非常にていねいに、そしてわかりやすく説明されています。コンピュータサイエンスに関する基本的な知識をお持ちの方ならば、ウェブアプリケーションに関連するソフトウェアやハードウェアに関する詳しい知識がなくても十分に読み進んでいけるでしょう。

明快な文章ならば翻訳もやりやすいのが普通です。ところが、翻訳を始めてみると、様子が違うのです。この種の本にしてはプログラムリストや図がとても少ないため、文章量がことのほか多いということもあるのですが、明快な文章にもかかわらず、訳そうとするとひとつひとつの言葉が、ひとつひとつの文が、やけに重たいのです。とくに7章あたりから後ろは、私の力では「凄い」としか形容ができません。これでもか、これでもかと、いろいろなテクニックやアイディアが披露されています。そのすべてが、著者自らが経験したことなので、濃く、そして重いのです。

主題は、スケーラブルなサイト、つまり成長に伴って低コストかつ容易に規模の拡大ができるサイトの構築法ですが、この本で紹介されている考え方や技術はすべてのサイト運営者にとって役に立つものだと思います。現に小さなサイトをいくつか運営しているような私たちのようなものにとっても大変役に立つ内容で、この本を参考にサイトにさまざまな改良を加えることができました。少なくとも、あと2、3年は、この本を座右においておけば、困ったときに的確な指針が得られるのではないかと感じています。一番この本が役に立つのは、我々が運良く巨大なサイトの構築に参加することになったときでしょうが、たとえそんなチャンスが巡ってこなかったとしても、きっといろいろな場面で助けになってくれるでしょう。

具体的な技術についてはもちろんですが、何よりも役に立つのは筆者の発想法に触れられることです。「なるほど、こういう手があるのか」「こういう考えかたもできるのか」と思わず手をたたきたくなる説明が随所に出てくるのです。この点では、ウェブアプリケーションに限らず、プログラミングの基本技術を持つすべての開発者にとって有用と言ってもよいかもしれません。

驚いたことに、この本は著者Cal Henderson氏の最初の著書のようです。おそらくは、この本の執筆に精力を使い果たし、今頃は抜け殻のような日々を送っているのではないでしょうか。いや、これほどの本を書く人ならば、もう元気一杯、次の大仕事に取りかかっているのかもしれません。翻訳作業の途中に出版社の方にもお願いしたのですが、もしHenderson氏の今後の仕事の予定のひとつに、次の本の執筆が含まれているのならば、是非ともまた訳させていだきたいというのが、この本を翻訳し終えたばかりの私の今の願いなのです。


最後になりましたが、株式会社オライリー・ジャパンの宮川直樹さんにはこの素晴らしい本をご紹介いただいたことに深く感謝します。また、『Google Maps Hacks ― 地図検索サービス徹底活用テクニック』に続き、宮川さんとともに我々の翻訳作業を見守り、厳しいスケジュールにかかわらず、ていねいな編集作業をしていただいた、株式会社チューリングの鈴木光治さんにも心より感謝いたします。

2006年11月
訳者代表 武舎広幸